『天幕のジャードゥーガル』ボラクチンは実在した?史実との違いを検証

モンゴル帝国の宮廷を背景に佇む謎めいた皇后の姿 ダーク

ボラクチンはモンゴル帝国第2代皇帝オゴタイの第一皇后であり、実在した人物だったと考えられる。

ただし出身部族や子ども、没年など詳細のほとんどは記録に残っていない。

漫画『天幕のジャードゥーガル』を読んで、ボラクチンという名前を初めて知った人は多いはずだ。

不老不死に執着し、危険な鉱物を飲み続ける妃という強烈なキャラクターとして描かれているだけに、「これって本当にいた人なの?」と気になるのも当然だろう。

結論から言えば、ボラクチンはオゴタイの正妻として実在した人物だ。ただし史料に残る情報は驚くほど少なく、彼女の人生の大部分は今も謎に包まれている。

なお作中には、ボラクチンと親しい妃モゲや、ボラクチンを毒から救う主人公シタラ(ファーティマ)といった人物も登場する。

この記事では、史実として分かっているボラクチンの姿と、『天幕のジャードゥーガル』で描かれた設定との違いを整理していく。

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ボラクチンとはどんな人物だったのか

ボラクチンは、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カンの後を継いだオゴタイの第一妃、つまり「大カトゥン」と呼ばれる立場にあった女性だ。

歴史書『集史』には、オゴタイの妃たちの中で彼女が最も年長だったと記されている。

ただし驚くべきことに、いつオゴタイの妻になったのか、どんな経緯で正妃という最高位に就いたのかは、まったく分かっていない。

生年も不明、両親の名前も不明、出身部族すらはっきりしない。

一部の研究では、チンギス・カン一族と婚姻関係を頻繁に結んでいたコンギラト部の出身ではないかと推測されている。

ただしこれはあくまで推測の域を出ず、ボラクチン本人がコンギラト部出身だったという直接的な記録は見つかっていない。

正妃という地位にありながら、これほど背景情報が乏しいボラクチンの記録の少なさは、当時の史料の性質を考えるうえでも興味深いポイントだと言えるだろう。


大皇后はボラクチンなのか、それとも別人なのか

1240年に建てられた「紫微宮懿旨碑(しびきゅういしひ)」という石碑に、ボラクチンの実在をめぐる大きな手がかりが刻まれている。

碑文には、幼い東宮の代わりに「大皇后」と呼ばれる女性と妃たちが命令を出していた、という内容が記されている。

問題は、この碑文にその大皇后の具体的な名前が書かれていないことだ。

そのため研究者の間では、この大皇后をボラクチンと見るか、別人と見るかで説が分かれている。

ボラクチン説は、オゴタイの第一妃であり最年長だったボラクチンこそが、1240年時点で大カトゥンと呼ばれていた人物ではないかという見方だ。

この年に幼い東宮といえば、オゴタイの孫にあたるシレムンしか該当者がいない。

シレムンの父はオゴタイの息子クチュであり、もしボラクチンがクチュの母親だったとすれば、シレムンは彼女の孫にあたることになる。

つまりボラクチンが幼い孫の公務を補佐していた、という筋書きが成り立つわけだ。

一方でドレゲネ説もある。ドレゲネはオゴタイの第六妃で、オゴタイの死後に摂政としてモンゴル帝国の政治を主導した女性だ。

その後の政治的な存在感を踏まえると、大皇后はドレゲネだったのではないか、という考え方も根強い。

ただしこの説には弱点がある。碑文が作られた1240年の時点で、オゴタイ自身はまだ健在だった。

『集史』で第一妃と位置づけられているボラクチンよりドレゲネが上位に立つには、ボラクチンをはじめとする有力な妃たちがすでにこの世を去っている必要がある。

さらにドレゲネは、のちに自らの息子グユクを即位させている。ドレゲネ説を取ると、彼女はシレムンを補佐する立場からグユク擁立へと方針を転換したことになる。

オゴタイの存命中は夫の決定に従いつつ、オゴタイの死後は自分の息子を優先させた、という解釈も成り立つだろう。

どちらの説も決定的な証拠はなく、ボラクチンか否かは確定していない。

ただ、オゴタイ存命中に大皇后と呼ばれていたという点を重視するなら、第一妃・正宮・最年長という条件がそろうボラクチンのほうが有力な候補と見る研究者は多いようだ。


ボラクチンと『道蔵』刊行支援の知られざる接点

紫微宮懿旨碑に登場する大皇后は、道教関連の書物を集めた『道蔵』の刊行を支援する命令を出したと記録されている。

『道蔵』には道教の経典だけでなく、儒学、医学、占術、そして錬丹術に関する書物も収められていた。

もしこの大皇后がボラクチンであれば、彼女は道教や占い、錬丹術といった分野に一定の理解を持っていたことになる。

これはボラクチンという人物の輪郭をつかむうえで、数少ない具体的な手がかりのひとつだ。

筆者としては、この『道蔵』刊行支援という一点が、後の創作における「薬」や「不老不死」というモチーフの発想源になったのではないかと考えている。

史料に残るわずかな断片から、創作者がどれだけ豊かな物語を紡ぎ出せるかという好例のように感じられる。


ボラクチンの子どもと最期は分かっているのか

ボラクチンに子どもがいたかどうかを直接示す記録は残っていない。

ただし先述のとおり、もし紫微宮懿旨碑の大皇后がボラクチンだったとすれば、クチュが彼女の子で、シレムンが孫という血縁関係が成立する可能性がある。

最期についても同様に、はっきりした記録は存在しない。

石碑の大皇后がボラクチンなら、少なくとも1240年までは存命だったことになる。その後の消息を示す記録が見つからないため、1240年代の早い時期に亡くなった可能性は考えられる。

逆に大皇后がドレゲネだった場合は、ボラクチンは1240年より前にすでに亡くなっていたことになる。

いずれにせよ、ボラクチンがいつ、どのように生涯を終えたのかは分かっていない。

正妃という高い地位にあった女性の最期がここまで不明瞭というのは、当時のモンゴル帝国の記録の残り方を考えるうえでも示唆的だ。


『天幕のジャードゥーガル』のボラクチン像はどう作られているのか

漫画『天幕のジャードゥーガル』では、ボラクチンはオゴタイよりかなり年上の第一妃・大ハトゥンとして描かれている。

作中設定では、もともと初代皇帝チンギス・カンの妃であり、チンギス・カンの死後に息子オゴタイが妻として引き継いだとされる。

レヴィレート婚という設定の背景

これは「レヴィレート婚」と呼ばれる、亡くなった親族の妻を別の男性が引き継ぐ遊牧民社会の慣習に基づく設定だ。

史実ではボラクチンがチンギス・カンの妃だったという記録はなく、オゴタイと結婚する以前の生活についても情報はない。

ただし遊牧民社会でレヴィレート婚自体は実際に行われていた。『集史』には、チンギス・カンの妃から後にオゴタイの妃になったとされるキュルギネという人物の記録があるとされる。

そのため、ボラクチンについてのこの設定が完全にありえない創作というわけではない、という点は付け加えておきたい。

出自の面では、作品のボラクチンは実家の血筋があまり高くない設定になっており、なぜ彼女が正妃の大ハトゥンなのかと周囲から疑問を持たれている。

これは史実で「出身部族や父親が不明」という空白を、創作側が「血筋の低さ」という具体的な人物像に転換したものと見られる。

モゲとの関係性という設定

作品ではまた、ボラクチンが「モゲ」という妃と非常に親しい間柄として描かれている。

頭の良いボラクチンをモゲが尊敬し、その言葉によく耳を傾けるという関係性だ。

モゲはもともとチンギス・カンの妃で、チンギス・カン死後にオゴタイの妃となった人物とされる。

作中でボラクチンも同様にチンギス・カンの妃だったという設定なので、両者の付き合いはそのころから続いているという解釈になる。

※画像はAIによるイメージ

不老不死と雄黄をめぐる展開

もっとも大きく異なるのが、ボラクチンの不老不死への執着とヒ素を含む鉱物「雄黄(ゆうおう)」をめぐるエピソードだ。

作中のボラクチンは若さと不老不死を強く求め、雄黄を飲み続けた結果、体調を崩して病床に伏す。

そこへ主人公シタラ(ファーティマ)が「ジャダ石」という毒消しを勧め、回復させるという展開になっている。

史実にはボラクチンが雄黄を飲んだ記録も、ファーティマから治療を受けたという記録も存在しない。

一方で、前述の『道蔵』には錬丹術や薬物に関する書物が含まれていた。作者がこの記録から着想を得て、ボラクチンの不老不死や雄黄にまつわる物語を組み立てた可能性は十分に考えられる。

さらに物語は、ボラクチンが雄黄を飲んでいた本当の目的が不老不死ではなく、自らの体で毒の作用を試し、その知識をオゴタイの弟トルイの毒殺に利用しようとしていた、という展開へ進む。

史実では、ボラクチンとトルイが対立していたことを示す記録はなく、彼女がトルイの死に関与したという証拠も確認されていない。これは完全に物語のために作られた設定だ。


史実とボラクチンの漫画設定の違いを一覧で整理する

項目 史実での記述 漫画での設定
身分 オゴタイの第一妃、正宮 オゴタイの第一妃、大ハトゥン
以前の夫 不明 初代皇帝チンギス・カン
結婚の経緯 不明 レヴィレート婚によりオゴタイが引き継ぐ
年齢 妃たちの中で最年長。年齢差は不明 オゴタイよりかなり年上
出身 出身部族・父親とも不明 特に血筋の高い家ではない
大皇后の称号 ボラクチン説とドレゲネ説がある ボラクチンが大ハトゥンとして描かれる
不老不死・雄黄 関連する記録はない 雄黄を飲み続けて病気になる
ジャダ石の治療 記録はない シタラの助言により回復する
トルイとの関係 対立や毒殺計画を示す記録はない 雄黄の毒でトルイ謀殺を企てる
『道蔵』との関わり 刊行を支援した大ハトゥンをボラクチンとする説がある 不老不死・薬物設定の着想源とみられる

こうして並べてみると、漫画のボラクチン設定は史実の「空白部分」を巧みに使って作られていることが分かる。

出自が不明という事実は「血筋の低い正妃」という謎めいた立ち位置に、『道蔵』刊行という断片的な記録は「不老不死と毒」という強烈なドラマへと転化されている。


考察:ボラクチンというキャラクターから見えてくること

ここからは筆者としての見解を述べたい。

ボラクチンというキャラクターを調べていて感じるのは、史料に残された情報の「量」と「質」のギャップの大きさだ。

彼女はモンゴル帝国の第一妃、つまり当時の宮廷において最高位の女性のひとりだったはずだ。それにもかかわらず、出身部族も、両親の名前も、子どもの有無さえ確定していない。

これは決して珍しいことではなく、モンゴル帝国期の女性たちに関する記録全般が、男性の統治者や将軍に比べて圧倒的に少ないという事情を反映していると考えられる。

実際、オゴタイの妃の中でも政治的な足跡が明確に残っているのはドレゲネくらいで、それ以外の妃たち――例えば『道蔵』碑文に名を連ねたとされる他の妃たちについても、個々の生没年や出自を特定できるケースはごくわずかだ。

摂政として実権を握ったドレゲネでさえ、詳しい生年や出身の経緯は曖昧なままだ。正妃であったボラクチンの記録がさらに乏しいのは、モンゴル帝国期の記録文化そのものの傾向として捉えるべきだろうと筆者は考えている。

個人的には、この「記録の少なさ」こそが、後世の創作にとって大きな余白を生み出しているのではないかと感じている。

近年、モンゴル帝国期の后妃たちの実像に迫ろうとする研究は続いている。『集史』やペルシア語史料に加え、漢文史料や碑文の再検討も進んでいる。紫微宮懿旨碑のような同時代の一次資料の再解釈が、今後も新たな知見をもたらす可能性は十分にあると筆者としては見ている。

こうした地味な史料の再検討と並行して、ボラクチンという名前がここ最近急速に注目を集めているのは、間違いなく『天幕のジャードゥーガル』の存在が大きいだろう。

作品のアニメ化の話題やSNSでの感想の広がりをきっかけに、「ボラクチンって実在するの?」と検索する読者が増えているのは、歴史創作が史実への関心を掘り起こす好例だと筆者は感じている。

同じような構図は、他の遊牧民后妃を題材にした創作にも見られる。例えばチンギス・カンの母ホエルンや、フビライの母ソルコクタニ・ベキなども、史料の乏しさゆえに創作ではしばしば強い個性や政治手腕を持つ人物として大胆に描かれがちだ。

その中でボラクチンの場合は「政治的な実権者」ではなく「不老不死に執着する薬草マニア」という、やや異色の方向へ人物像が振られている点が独自だと筆者は考える。

大皇后がボラクチンかドレゲネかという論争も興味深い。どちらの説にも決定的な証拠がない以上、今後新たな出土史料や研究によって解釈が変わる可能性は十分にある。

筆者としては、第一妃・正宮・最年長という『集史』の記述を重視する立場から、ボラクチン説にやや分があるように感じているが、あくまで一つの見方にすぎない。


まとめ

ボラクチンはモンゴル皇帝オゴタイの第一妃として実在した人物であり、妃たちの中で最年長だったことが『集史』に記されている。

ただし出身部族、両親、子どもの有無、没年といった詳細のほとんどは不明であり、1240年建立の紫微宮懿旨碑に登場する「大皇后」がボラクチンかドレゲネかという論争も決着していない。

『天幕のジャードゥーガル』で描かれる不老不死への執着や雄黄、トルイ毒殺計画といった設定は、史実の空白を埋める創作であり、直接の記録は存在しない。

史実の乏しさと創作の大胆さ、その両方を知ることで、ボラクチンという人物への理解はより深まるはずだ。


よくある質問

ボラクチンは実在した人物ですか?

はい。モンゴル皇帝オゴタイの第一妃として実在したと考えられている。ただし詳しい経歴のほとんどは記録に残っていない。

ボラクチンとドレゲネ、どちらが大皇后だったのか?

紫微宮懿旨碑に名前は記されておらず確定していない。ただし第一妃・正宮・最年長というボラクチンの立場を重視する研究者が多いようだ。

ボラクチンの出身部族はどこですか?

史料には明記されていない。コンギラト部出身とする説もあるが、直接の記録は見つかっていない。

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